浅草花柳界の歴史

〜はじめに〜
あでやかな芸妓衆をお座敷に呼び、磨かれた芸と会話、そして極上の日本料理とお酒を、凝った拵えのなかで楽しむ「芸妓遊び」。江戸の昔から続くこの「粋なおとなの遊び」は、今も最上級の贅沢であることに変わりありません。

「芸妓遊び」の舞台、花柳界は三つの業種から成り立っています。

一、芸妓衆の屋形である置屋
一、遊びの場を提供する料亭
一、料理を供する割烹料亭 

とかく「花柳界は敷居が高い」「花柳界は無縁だ」と始めから敬遠の向きも、ぜひこのホームページをご覧下さい。手順を踏んでルールを知れば、古くて新鮮な遊びの世界が見えてきます。


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浅草花柳界の歴史

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浅草寺の北に広がる浅草花街は、伝統と格式を誇る東京屈指の花柳界のひとつです。
古来より浅草観音様は諸人の参詣を集め、掛け茶屋が出て賑っていました。武江年表
(斉藤 月岑 編 平凡社東洋文庫)によると明暦年間(1655〜1657)「金竜山の門
前に初めて茶飯 豆腐汁 煮染 大豆等をととのえて奈良茶となづけて出だせし」と
あり、これが江戸の料飲店の始まりといいます。宝暦7年(1757)には「江戸真先稲
荷流行出でて田楽茶屋数軒出来て繁盛す」と記され、その後、浅草寺門前広小路に移
り、菜飯田楽を看板に料理店化してゆきます。この田楽茶屋の酒客のお相手に生まれ
たのが、田楽芸者の愛称でも知られた広小路芸者です。

北には、遊女三千人で不夜城を誇った幕府公許の新吉原の遊郭があり、大門外の田町
山谷堀あたりの編笠茶屋や船宿を出先に、ここに山谷堀の芸者、俗にいう堀の芸者
生れ盛況を迎えます。

また天保の改革で、江戸市中に散在していた3座の歌舞伎、2座の人形芝居の小屋を
猿若町に移し、芝居町が形成され、芝居茶屋には猿若町芸者が誕生します。芝居櫓の
下にいるので櫓下芸者と呼ばれたといいます。

これら三派の芸妓衆が、この三名所を背景に、江戸府内随一の大歓楽境を作ってゆき
ます。明治維新後、一時衰微しますが、明治18年(1885)浅草寺寺内の改造を機に
広小路、猿若町、堀の芸妓衆の一部が浅草公園周辺に集まって、公園内の料理屋を出
先に、現在の浅草芸妓のもととなる公園芸妓が生まれ、再びかつての繁盛を取り戻し
ます。明治29年(1896)には料理店ごとあった見番をまとめた公園見番が作られ、
芸妓の管理、花街の運営にあたります。

公園を根城にしていた花街も、芸妓の変遷、都市の発展に伴い現在の場所に移ります
。大正末期には料理店49軒、待合茶屋250軒、芸妓1,060名を擁した大所帯
も、関東大震災、続く戦禍のために、多数の痛ましい犠牲者を出して、浅草花街は壊
滅状態となります。

戦後は関係者一同が花街の復興、再起に力を注ぎ、昭和25年(1950)には、浅草花
柳界の復活発展を示す、第一回浅茅会をスミダ劇場で開催して好評を博します。その
後、会場が明治座、浅草公会堂と変わりますが、浅茅会公演は浅草芸妓の鍛えた伎芸
をご披露する場として知られ、随時開催されてきました。

平成7年(1995)には、東京浅草組合と浅草観光連盟の共催となり、台東区の後援を
いただき、「浅草おどり」として街をあげた催事として、浅草花街の地域復興、芸妓
の芸能文化向上に寄与しています。

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