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横浜中華街の歴史

横浜中華街の歴史をご紹介。これを知れば中華街がもっと楽しくなる!

横浜中華街の誕生(1859 〜1923)

 幕末、1859年に横浜港が開かれる以前、中華街周辺は、横浜新田と呼ばれていました。開港後は外国人商人のため、一帯を居留地として開発。明治元(1868)年には横浜に暮らす中国人、いわゆる華僑(約1000人)がその一角に居住し、関帝廟、中華会館などが設けられ、中華街の原型ができました。明治32(1899)年に居留地が廃止されると、その人口はさらに増加。20世紀初頭には5000人に達し、華僑社会はさらに発展を遂げていきます。
 しかし、大正12(1923)年9月1日、関東大震災が発生し、中華街は壊滅的な打撃を受けます。古いレンガ造りの建物が密集していたため、家屋は倒壊・焼失。多くの華僑が命を落とし、生き残った人々も神戸や大阪、あるいは広東や上海へ避難していきました。こうして一時、横浜華僑は200人ほどに激減。さらに震災後の混乱の中、外国人であるという理由から、さまざまな困難に見舞われることとなります。

震災、そして戦災からの復興(1923〜1955)

 震災で大打撃を受けた中華街ですが、昭和に入ると華僑人口も3000人あまりに回復します。しかし、昭和12(1937)年、日中戦争が勃発し、両国の関係が悪化。横浜に生まれ育った華僑たちはこの街にとどまりますが、その多くは中国へ撤退。反中国感情の高まりや華僑の帰国により中華街には客足が途絶え、その生活は厳しさを増していきます。そうした中でも横浜の華僑たちは、地元との関係を保つ努力を続け、戦時下の日々を耐え抜きました。
 昭和20(1945)年5月29日、中華街は大空襲によって焼き尽くされ、一面焼け野原となりますが、8月15日、終戦とともに復興がスタート。翌年には関帝廟と横浜中華学校が再建されます。
 昭和30(1955)年には、中華街復興の願いを込めて、中華街大通りの入口に「善隣門」を建設。牌楼の上には、華僑が「唐人街」、日本人が「南京街」と呼んでいた街の正式名称として「中華街」の文字が、「親人善隣」の四文字とともに掲げられました。

高度経済成長と中華街の発展(1955 〜)

 中華街に暮らす華僑の人口は、戦後、3000〜4000人台を推移しています。街には日本人と中国人が共生し、中国人が飲食店、日本人が食材を供給するという形で分業も進みました。1960年代からはじまる高度成長と、横浜港周辺の開発によって、中華街はさらに発展。1972年の日中国交正常化による中国ブームによって、さらに多くの人々が中華街を訪れるようになり、観光地としての地位を確立していきました。1986年元旦、関帝廟は失火により焼失しますが、街の人々は思想や信条を超えて協力し、1990年に再建を果たします。
 1995年になると7つの牌楼を新築し2003年に朝陽門を建てることで、風水思想に基づいた牌楼がすべて完成しました。また、2006年には、海の守護神をまつる「横濱媽祖廟」が開廟。このように横浜中華街は、時代とともに新たな魅力を刻み続けています。

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 中国生まれの日本食たち
イメージ 今では日本食と思われているものが、実は中国にルーツがある食べ物ということは少なくありません。それらの多くは、仏教を学ぶために日本と中国の間を行き来していた、僧侶たちによって伝えられました。
 例えば「豆腐」は、紀元前2世紀の漢時代、准南王劉安によって発明されたとも、8〜9世紀の唐時代中期に創作されたともいわれています。日本に製法が伝わったのは、平安時代後期、あるいは鎌倉〜室町時代中期頃のこと。
イメージ江戸時代になると、庶民の間でも広く食べられるようになりました。
 また、日本に伝わることで甘味に変化したのが「ようかん(羊羹)」です。中国では羊肉の羹(吸い物)だったものが、鎌倉時代に日本へ伝来。すると仏教の影響から、吸い物の具に羊肉(肝臓)ではなく、色がよく似た小豆が使われました。これをきっかけに、室町時代後期、甘味としてのようかんの原型が誕生したといわれています。
取材協力:横浜中華街発展会協同組合
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