創業から107年! 神田神保町の移り変わりを見つめてきた変わらないビールと洋食の名店『ランチョン』

【連載】幸食のすゝめ #024  食べることは大好きだが、美食家とは呼ばれたくない。僕らは街に食に幸せの居場所を探す。身体の一つひとつは、あの時のひと皿、忘れられない友と交わした、大切な一杯でできている。そんな幸食をお薦めしたい。

2016年08月22日
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創業から107年! 神田神保町の移り変わりを見つめてきた変わらないビールと洋食の名店『ランチョン』
Summary
1.創業は明治42年でオープン時は店名無し
2.作家・吉田健一のオーダーから生まれた名物とは?
3.ビヤホールであり東京を代表する洋食店のひとつ

幸食のすゝめ#024、重なる泡には幸いが住む、神田神保町。

「今日は閉まってたんだけど、山田書店にコレクターが手放した澁澤龍彦がたくさん入ったらしいの、見たいなぁ」。
「ずっと探してた殿山泰司のカッパ・ブックス、さっき矢口書店に行ったら、とんでもなく安く出てた。考えてみたら、あそこは演劇関係、殿山さん、役者だもんなぁ」。
webデザイナー風の男女が、窓際の席で、ビール片手に話している。『ランチョン』を出たら、ブックブラザー源喜堂にでも回るのだろうか。台風が近づいている東京、神保町も少しずつ雨が降り始めた。

神保町は世界に向けて開かれた図書館だ。グリニッジ・ヴィレッジの街角でも、セーヌ河畔のブキニストでも、これだけの数とバラエティの古書に出逢うことはない。インターネット全盛の今、神保町の古書店数は、百数十年に及ぶ歴史の中でも最大数を極めている。バーチャルは決して、リアルを凌駕できなかった。見つけたばかりの本を抱えて、家までご褒美を我慢できない子どもの気分で『ランチョン』へ。さっそく封を開けているところに、おいしいビールがやって来る。もしかしたら、この瞬間こそが文化と呼ぶものかもしれない。

開店した明治42(1909)年当時、店にはまだ名前がなかった。ビールと洋食を出す店など周りにはなく、名前の必要などなかったからだ。でも、当時の常連だった東京音大(現・芸大)の学生たちが『ランチョン』とネーミング。そのまま、現在に至っている。そして、百年以上経った今も、変わらない美味しさの生ビールと洋食を提供し続けている。室温に応じて、微妙に調整されるビールの温度。着席のタイミングを見計らってサーヴされるグラス。何度も泡を切りながら、細かい泡を積み重ねて、丁寧にグラスに注がれるビール。変わらない味の向うには、絶えまない努力と誠意がある。

生前、作家の吉田健一は毎週木曜日、開店と同時にいちばんに現れたという。編集者との打合せは、いつも『ランチョン』指名だった。「大好きなビーフシチューを片手で食べたい」、そんな彼のリクエストから生まれたビーフパイは、今でも早い時間に売り切れる。

『ランチョン』は最上のビアホールである以前に、東京を代表する洋食店でもある。ボリュームいっぱいの「自慢メンチカツ」は、ナイフを当てたとたん、中から肉汁が溢れ出す。熱々にウスターソースをかけたいベークドポテトも、ビール好きにはたまらない逸品だ。

お昼には、日替わりランチとステーキランチを提供。もちろん、〆の定番、オムライスも人気だ。自由な風が流れる本の街にふさわしく、小さめのランチビールも用意されている。

ビールは知的な好奇心を優しく抱き締める

ここでは「とりあえずビール!」と愚直なオーダーをする客はいない。酔っぱらって、上司の愚痴を並べる輩も見かけない。誰もがこの店のビールを愛し、神保町を愛する客ばかりだ。
黄昏時の『ランチョン』で静かにビールの杯を傾け、お気に入りの料理をつまむ。百年以上も続いて来た、都市の最良の風景だ。ビールを注ぐ店主の後ろには、酒場の賑わいを描いた壁画がある。画面の左上の方をよく見ると、優しく微笑む先先代がそっと店を見守っている。

上質な食を、いつも良心的な価格で提供し続けること。本の街をパルプの墓場にしなかった一因は、知的な好奇心を潤す一杯のビールにあったのかもしれない。

なくなった青空の行方と一杯の冷たいビール

昭和51年、僕が初めてランチョンを訪ねた頃、店の上には限りない青空が広がっていた。路面電車が廃止されて以来、九段から神保町辺りはJRの駅から歩くしかなかった。やがて、半蔵門線の導入が決まり、東京の地上げは神保町から始まる。連日、札束でいっぱいのアタッシュケースを抱えた怪しげな男たちが街を闊歩し、古書店の多くはビルに変わった。

『ランチョン』の窓から向かいの通りを見晴らすと、欠けた虫歯の根っこみたいに古い建物が残っている。でも、空っぽの空間の方が、実は文化という糊しろに違いない。東京オリンピックに向けて、また東京は大切な風景を失って行くのだろうか?変わらない『ランチョン』の空気の中で、ビールの琥珀越しに見える東京に今夜はもう一杯だけ乾杯しよう、重なる泡には幸いが住んでいる。

<メニュー>
生ビール/黒生ビール/レーベンブロイ生 650円、
ピーフパイ1,300円、ベークドポテト850円、自慢メンチカツ1,100円、オムライス950円
※本記事に掲載された情報は、掲載日時点のものです。また、価格はすべて税込です。

※森一起さんのスペシャルな記事『【幸食秘宝館】渋谷にたたずむ奇跡のような隠れ家的名店・3軒を巡る』はこちら

ランチョン

住所
東京都千代田区神田神保町1-6
電話番号
050-5494-8830
(お問合わせの際はぐるなびを見たというとスムーズです。)
営業時間
月~土
11:30~21:30
定休日
日曜日
祝日
年末年始
ぐるなび
https://r.gnavi.co.jp/e019600/

※本記事に掲載された情報は、取材日時点のものです。
※電話番号、営業時間、定休日、メニュー、価格など店舗情報については変更する場合がございますので、店舗にご確認ください。