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| なぜ「新梅田」? |
| イメージとしてはここは梅田のど真ん中。どうして「新」なのかは諸説有り、今となってははっきり覚えている人はいませんが、次の説が有力。
昭和25年頃と言えば、まだ戦後の混乱期。しかしこの周辺は大阪の中心地として、復興も急ピッチという時代です。梅田は北を代表とする地名で、地下鉄・阪急・阪神の駅名でもあります。 その中で「梅田」と名付けるとかなり広い地区を意味し、この食道街の所在地を特定しにくいこと。また、国鉄大阪駅の高架下を借りているのに、「梅田」は付けにくいという駅名への遠慮。また、早く元気な梅田を取り戻し、新しい梅田の活力となる、みんなが気さくに楽しめる飲食の場をとの願いを込めて・・・などなどから「新梅田」となった。 |
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| ※実際には、この時代の梅田と言えば、阪急百貨店(御堂筋側のみの建物で8階建て)と、3階建ての阪神百貨店、それと国鉄大阪駅で取り囲む一帯という地区イメージが強かった。阪急電車の梅田駅はこの当時は、現在の百貨店横の広いコンコースがホームであり、国鉄線の下を通って発車していた。この位置関係からすると、新梅田食道街はやはり梅田といっても端っこという感が強く、何らかの遠慮があって「新」を付けたのではないかと・・・。蛇足ながら、梅田地下センター(現ホワイティ・ウメダ)が開業したのは1963年(昭和38年)11月。この前後からまさに地下街時代を迎えることになるが、昭和25年当時はまだ地上の時代である。 | ||
| なぜ食「道」街? |
| 普通なら食「堂」街ですね。一つ屋根の下で同じ事をするのが「堂」。 ここはいろんなものを食べさせ、飲ませる店が、狭い通路に並んでいる。 だから「道」なのだと、今は亡き北京の先代当主・齊木信孝氏の命名によります。 |
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| 開業当時の上客 |
| まだ貧しい時代で、毎日のように飲むことが出来る様な人はまずありません。苦しいスタートの中でありがたかったのは、その当時のお客さんのほとんどが、国鉄大阪駅からの流れ、すなわち旅行客であったことです。地の利に恵まれたことが何よりの救いでした。 |
| 流し全盛時代 |
| 開業6年後の1956年(昭和31年)には40店となり、この食道街が賑わうにつれ、流しの人がもてはやされるようになりました。 ギター、アコーディオン、三味線、尺八、大正琴の音にあわせ、客のどんな注文でも歌いこなすという、名人芸の流し全盛時代でした。「銀座カンカン娘」「長崎の鐘」「水色のワルツ」「白い花の咲く頃」「桑港のチャイナタウン」「夜来香」「東京キッド」「越後獅子」等々、現在はカラオケなど、自分が歌って楽しむ時代ですが、この頃は上手な人の歌を、手拍子とともに聞き惚れるという時代でした。 |
| 昭和45年 |
| と言えば分かりにくい方も多いでしょうが、1970年・・・そう、日本万国博覧会の開催された年です。 この前年に阪急電車梅田駅の神戸線・宝塚線が現在地に移転し(京都線は昭和46年)、わが食道街の北側が新駅の玄関口といった様相になっていました。このおかげでお客様も増えていたときに、万博の開催でその見物客が日本全国から大阪駅へ集まるという事態になり、食道街も通路まで満員盛況の毎日が続きました。 |
| チャリティー餅つき大会(新梅田食道街店主会主催) |
| 2003年12月7日(日)チャリティー餅つき大会 ・ゴスペルシンガーによる心温まるライブ ・和太鼓奏者による力強いショー お客様参加による恒例のチャリティー餅つき大会を開催しています。つきたてのお餅やぜんざい、ビール、おでんなどを販売し、その売上金と募金の金額を、寄付しています。 |
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| アクセス:JR大阪駅から徒歩1分・阪急梅田駅から徒歩1分 |
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