四条河原は四条大橋附近の鴨川原をいう。ここは南北朝以来の市民の歓楽地であったが、今は護岸工事の施行により、河原へ下りることは出来ず、むかしをしのぶべくもない。 むかしの鴨川は、川幅もひろく、川のながれも幾筋にもわかれて流れていたから、京洛にことあるごとにここが戦場となったことは、幾多の文献によっても知られるが、また勧進田楽や猿楽の能をおこなう市民の遊散所ともなった。殊に慶長年間、出雲の阿国があらわれて、この河原で歌舞伎踊をおこなったことから河原芝居が発生し、これがのちに四条大橋の東畔に芝居小屋がつくられる端緒となり、宮川町や先斗町の発展とともに江戸時代には一大歓楽境を現出した。特に夏の納涼はさかんで、北は三条より南は松原に至る河原に床几を設け、諸種の興行がおこなわれた。「花洛名勝図会」巻一(元治元年(一八六四)刊)によれば「およそ六月七日の夜より十八日の夜に至って、四条河原水陸寸地をもらさず床をならべ、席を設けて良賤般楽す。東西の茶店、堤灯を張り、あんどんをかかげて、あたかも白昼の如し、これを川原の涼みといふ。按ずるにこれ遊戯の納涼にあらず、諸人に名越の祓をなさしめんとの神慮なるべし。されば十三日の夜に至っては、祇園の宵宮とて殊ににぎわし云々。」 とあって、往時のにぎわしさがしのばれる。また毎年盂蘭盆には、河原で「おがら」をたいて精霊送りをし、二月十六日には盲人が集って石塔会をおこなう等、また民俗行事にも利用された。 四条河原の納涼は明治以後にも引継がれ、七・八の二カ月間にわたって盛大に行われたが、明治二十七年(一八九四)疏水運河の完成によって東岸のお茶屋の床が取りはらわれ、同四十三年(一九一〇)には京阪電車が大阪から五条大橋まで開通し、次いで大正四年(一九一五)に三条大橋まで延長運転されるようになってからは、鴨川のせせらぎも文明の騒音にかき消されるようになった。とくに明治末年の四条大橋の架け替えによって市電が開通してからは、川原の夕涼みはまったく廃止されてしまった。いまは右岸の先斗町や木屋町の料亭旅館に設けられた納涼の床によって、むかしを偲ぶにすぎない。 |